諦観(ていかん)の2つの意味や「達観」「諦念」との違いを解説!

諦観(ていかん)とは

「諦観」は「ていかん」と読み、「諦」と「観」で構成されています。「諦」という文字が用いられているものの「あきらめる」という意味はなく、「全体を見通してことの本質を見きわめること」「悟りあきらめること」を指します。 ここでは「諦観」の由来や意味について、例文なども用いながら説明します。

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諦観の由来は仏教用語

(画像:Unsplash

中国から伝わった「諦観」という言葉は、もともとは仏教用語です。 「諦」は漢語として用いられる際には、「真理」や「道理」を意味します。そこに「観」が加わることで、「真理を観る」あるいは「道理を観る」ことを表します。そのため「諦観」は「明らかにする」もしくは「つまびらかにする」という意味で使われていました。 また、仏教用語において「あきらめる」は今の日本で使われている意味とは異なります。仏教用語では、「物事に対する執着をなくして悟りを開き悩みや迷いから解放されること」を指して、「あきらめる」が使われるのです。

 

諦観の意味①「全体を見通して、ことの本質を見きわめること」

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「諦観」は、「全体を見通して、ことの本質を見きわめること」を意味します。 「諦」はもともと中国では、「あきらかにする」や「まこと」という意味を持つ字でした。そして「観」には「(注意して)みる」「ながめる」という意味がありますので、この2文字でできた「諦観」で「全体を見通して、ことの本質を見きわめること」となります。 「諦観(ていかん)」を「諦める」という意味に取り違えている人が多いようです。「諦」を訓読みする際、「あきら(める)」と読むからですが、これは日本に伝わった際に、元の意味に後から加わった読み方です。

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例文①諦観の境地

「諦観の境地」は、より仏教用語に近い意味を持つ言い回しです。 ・義両親と同居するための転居は私にとって苦渋の決断でしたが、家族を取り巻く環境を考えるとそれが最善であると今では諦観の境地です。 「諦観の境地」という言い回しの場合は、「全体を通して物事の本質を見極める」という意味を持ちます。そしてそこには、「見極めたうえで執着しない状態になる」という意味を含みます。「諦観の境地」を言い換えるとしたら、「往生際がよい」「未練がない」「潔い」「こだわりのない」などが適切といえます。

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例文②諦観の念

「諦観の念」はビジネスシーンで、使われることも多い言い回しです。 ・クライアントへのライバル会社の攻勢を考えると厳しい状況ですが、諦観の念を持つことによって一喜一憂することはなくなります。 ・震災によって荒廃した故郷を目の当たりにして、諦観の念が沸き起こりました。 「諦観の念」は「諦観の境地」と同様な使われ方をします。つまり「全体を通して、ことの本質を見きわめる」という意味で使われることも共通しています。なかでも、「よくないことあるいは悪い状況も含める」ことを指すのが、「諦観の念」といえます。

諦観の意味②「悟りあきらめること」

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「諦観の境地」の説明にもあったように、「諦観」には「悟りあきらめるあるいは超然とする」という意味もあります。そうした意味で使われる「諦観」は、「物事の本質を見極めたうえ俗世の欲望を手放し超然とした態度で臨む」ことを指します。 つまり抱えている悩みや迷いの本質を見極めようとする過程で自分が執着している俗世の欲望を絶ち、それをあきらめるという前向きな意味で使われるということです。それは「断念する」ことではなく、「悟り納得して手放す」というニュアンスが含まれます。

 

例文①諦観する

「諦観する」は、人に対してよく使われる言い回しでもあります。 ・プロジェクトが失敗した責任をリーダーは私に押し付けるだろうと、私は諦観していました。 ・加齢とともに体力の衰えを諦観する彼は、引退のタイミングを図っていました。 「諦観する」は「物事の本質を見極めたことで、あきらめるに至る」という意味で使われます。その場合「断念する」といったネガティブなニュアンスではなく、「自分がおかれた状況や事態を理解し執着せずにそれをあきらめる」というポジティブさを含みます。「もはやこれまでと思う」と言い換えることもできます。

例文②諦観的

そして「諦観的」は、「悟りあきらめるという姿勢を持って物事と向き合う」ことを意味します。 ・長き闘病生活を送っている彼女の諦観的な振る舞いを見ると、その年齢を忘れてしまいます。 ・社員を守るために諦観的に会社の吸収合併を受け入れようとしている社長に、私はついていこうと思っています。 「諦観的」は、「それがどんなに辛いことであっても物事の本質を見極め悟りの境地に至る」という心情を表しているといえます。この場合は「終わりを覚悟する」という類語に置き換えられます。

諦観の類語は「達観」と「諦念」

「諦観」の類語としてあげられるものに「達観」や「諦念」「観念」「覚悟」「悟り」がありますが、似ていても異なる意味を持ちます。 ここでは「諦観」の同義語として認識している人も多い「達観」と「諦念」を、例文を一緒に紹介することで違いをわかりやすく説明します。

類語①達観(たっかん)

「諦観」はよく「達観」(たっかん)と間違って使われます。どちらも仏教用語であり、「大きな視野を持ち悟りの境地で物事の本質を観る」という意味を持ちます。「諦観」は、「真理あるいは道理を明確に見極めたうえで悟りの境地に至る」という意味を持ちます。しかし「達観」は「目先の些末なことに惑うことなく心理を悟る」ことを指し、重視しているポイントが異なるのです。 その違いを理解するには「諦観」は「物事の本質を明らかに観る」、「達観」は「より広い視点から物事を見通す」ことであると覚えるとよいでしょう。

 

類語②諦念(ていねん)

「諦観」と「諦念」(ていねん)は共に仏教用語で、混同されることが多い熟語です。しかし、本来の意味は微妙に異なります。 「諦観」は「物事の本質を明らかにする」「そのうえで悟りの境地に至る」という意味を持ちます。つまり、迷いや悩みがどこから生まれてくるのかを真理・道理に則って明らかにするために観ることに主眼が置かれています。 一方の「諦念」は「本質を明らかにした結果、迷いや悩みのない境地に達する」ことを指します。ここで重視されているのは、「悟りに至った後の心情」です。使い分ける際には、どちらが適切かを考えてからにするとよいでしょう。

諦観の英語は「resignation」

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「諦観」を英訳する際には、「resignation」が用いられることが多いです。それは「諦観」を直訳できる英単語がないからです。 ・I kept being betrayed by a company and came to the state of the resignation. (会社に裏切られ続けた私は、諦念の境地に至りました。) 「resignation」を直訳した場合には、「辞職」「辞任」「辞表」と表されることが多いです。しかしその他に「あきらめ」「観念」という意味を併せ持つことから、「諦観」の英訳として用いられることが多いです。